分限者に成りたくば。秋の夕昏をも捨よ

『田舎の句合』より

*其角初期の頃の句。分限者とは、富豪のこと。「さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮 寂蓮法師」「心なき身にもあはれは知られけりしぎたつ沢の秋の夕ぐれ 西行法師」「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ 藤原定家」を「三夕」といいますが、秋の夕暮れに「あはれ」を感じ「無常」を観じていては、分限者にはなれないの意。秋の夕暮れの寂しさを、逆説的に俳諧的に表現しています。
『田舎の句合』とは、其角の発句50句を25番の発句合にし、それに芭蕉が判詞を添えたもので、掲句はその16番「左 分限者に成りたくば。秋の夕昏をも捨よ」「右 秋の心法師は俗の寝覚かな」。芭蕉の判は左勝ち。



雁鹿虫とばかり思うて暮けり暮

『板東太郎』より

*其角初期の頃の句。「かじかむしとばかりおもふてくれけりくれ」と読んで、「雁鹿」を「河鹿」とした句解がありますが、正しくありません。この当時の其角の心情は、芭蕉と共に、俳諧というジャンルを如何にしたら確立できるのか、和歌・連歌の誠とは異なる俳諧の実(まこと)とはいったい何か、と考えてばかりいたのであったわけで、和歌の縦(雅)の題である「雁」「鹿」「虫」をどうしたら横(俳)の題に表現できるのか、「かり・しか・むし」「かり・しか・むし」とばかり思うて日が暮れ、また秋も暮れてしまったの意。俳諧とはいったい何かと、思い悩んでいる其角の姿を思い浮かべたらよく分かる句です。



月花閑素幽栖の野巫の子有り

『桃青門弟独吟二十歌仙』より

*これも初期の頃の句。其角の父・竹下東順は医をもって本多某候に仕えていた藩医でした。和歌・俳諧は由良正春門であった東順は、長子其角に医師としての素養と当代最高の教養をつけさせようとしました。それで其角は、鎌倉円覚寺の大顛和尚に易や漢詩を習い、書は佐々木文山より、俳諧は松尾芭蕉から習いというようにしているうちに、結局は医師として開業はせず、俳諧師の道を選んだのです。それで自分を「月花ヲ医ス」ヤブ医者の子だといったのでしょう。
「閑素幽栖(かんそゆうせい)」は、中世三大紀行文のひとつ『海道記』に「白河の渡り中山の麓に閑素幽栖の侘士あり」の一節があり、其角はそこを読んでいたのでしょう。どこぞに間借り住まいする自分も「侘士」だと洒落たのだと思います。


遊大音寺
んめがゝや乞食の家も覗かるゝ

『五元集』より

*「んめがゝ」は「梅が香」。現在、大音寺は台東区下谷竜泉寺の町中にありますが、当時は吉原遊郭の裏手で、江戸郊外の田圃の中のあったという事です。其角にとっては、大音寺は読み書きなどを習うために、通いだったか寄宿してだったか分かりませんが、10歳頃に入学した「寺子屋」であったようで、久しぶりに訪れたのかも知れません。町から外れたこの付近は、乞食の住む小屋も多くあって寂しげなところかと思われますが、土地勘があっての散策だったのでしょう。野梅の馥郁な香が伝わってきます。
 この句は「梅が香」という雅な縦の題材を「乞食」と取り合わすことで、其角らしい感性で俳化しています。「雁・鹿・虫とばかり」和歌と俳諧との本質の違いに悩んだ入門から、既に八年、俳諧を自家薬籠中の物にした其角の姿が目に浮かびます。



蚊柱に夢の浮きはしかゝる也

『五元集』より

*藤原定家の代表句「春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空」を換骨
奪胎した句です。定家は「とだえして」と、夢から覚めて明け方の横雲の空をみて
いるのでしょう。「夢の浮橋」に「横雲の空」の連想は幽玄調でしょうか、世の儚
さ、別れの空しさをテーマにしているのだと感じます。
 対して其角の「蚊柱に」は、夏の昼寝よりの寝覚めの名残りでしょうか。そして
遊女がお化粧を直しているのでしょうか。郭は現実社会から離れた悪所であっても
庶民にとって吉原は高嶺の花の仮想空間でしょう。
「蚊柱」は雄が群れをなして柱のようになっており、そこに雌が飛び込んで交尾す
ると言われていますが、遊女にとってそこは生活の場です。そこへ通い路の「夢の
浮きはし」が「かかる」のです。この「あわれさ」を、其角は感じています。其角
30歳頃の句ですから、如何に其角が成熟していたかが、現代人の30歳と比べて
みて思われますね。
 世間的生活そのままの中にいる其角には、遊女の、いや人間の現実を「蚊柱に夢
の浮きはしかかる也」とありのままに批評する達観があったのだと思います。わた
くしたちの毎日もどう見ても危ういシステムの上に乗っかって生活しているのです
から、分からないでも無いですね。


万世のさえづり黄舌をひるがへし肺肝をつらぬく
うぐひすに此芥子酢はなみだ哉

富森春帆大高子葉神崎竹平これらの名は焦尾琴にも残り聞えける也

『五元集』より

*世間に知られている「其角像」のひとつに、赤穂事件に関したエピソードがある。それは、討ち入りの前日、ばったりと出会った其角と赤穂浪士の大高源五(俳号湖月堂子葉)との間に、

 年の瀬や水のながれも人の身も   其角
  あしたまたるゝ其たから船    子葉

 の付け合いがあった、そして、翌元禄15年12月14日の義士討ち入りの報に接した其角が「あしたまたるゝその宝船とはけふの事」と後ればせに気づくという物語りである。今日では、このエピソードは歌舞伎作家らによって作られた全くのフィクションであったという事が明らかになっているが、まだまだ、このエピソードを以て其角像をイメージしている方は多いだろう。
 では、忠臣蔵と呼ばれる一連の赤穂事件について、其角がどうのような考えを持っていたかというと、この発句にあるように、この顛末は、鶯に摺餌を与えるところを、間違えて芥子酢を食わせたような酷さだと云う意味になる。
 さらに、前書きを読むなら、『文選』の「三良詩」に「黄鳥タメニ悲鳴ス、哀シイ哉、肺肝ヲ傷る」を踏み、後註を読めば、赤穂事件により切腹させられた富森春帆、大高子葉、神崎竹平の三人を「三良」に擬しているのが分かるだろう。これら三人は其角の編集した俳諧集『焦尾琴』にも載る俳人だったわけであり、三良の詩や故事が載る『詩経』や『左伝』を読んだ事のある者なら、其角が、殉死、敵討ちといった行為そのものを哀しみ、義士、忠臣などの言葉を用いていない事に気づく。
 こうした其角の高度な考えは、世間一般のレベルには分かり難いものだったであろう。そこで、戯作作家らは其角の知名度を利用して俗なるエピソードを拵えあげて行った。



上交語上
平家也太平記には月も見ず

『五元集』より

*「上交」は「君子ハ上交シテ諂ハズ(周易)」、「語上」は「子曰ク、中人以上ハ以テ上ヲ語グ可キナリ、中人以下ハ以テ上ヲ語グ可カラザルナリ(論語・雍也第六、138)」から取った、いずれも孔子の言葉とされるフレーズである。儒学者・服部寛斎がまだ平助と名告っていた元服前に、其角は論語を寛斎から習ったようだが、実に当時の文化人は論語を読んでいる。
 となると、さすが平家物語だ、太平記には月見の章が無いくらいの毒では済まない。読む人が読めば、お上(源氏を引く幕府)を皮肉った高等批判になるからだ。



屏風に藤房卿住すつるの所
迷ひ子の三位よぶ也時鳥

『五元集』より

*『太平記』に、中納言藤原藤房が後醍醐帝へ直諌奉るも容れられず剃髪出家してしまうくだりがある。帝が後を追わせると僧房に藤房の姿はすでに無く、「住み捨つる山を浮世の人とはば嵐や庭の松にこたへん」と障子に書かれていたという。
 「迷ひ子」を行方知れずの藤房とみるか、それとも南朝方ととるか。それよりわずか2年後に崩壊してしまった建武の中興を思うと、誰の目にも、南朝方の迷走ぶりを「迷ひ子」と言っているのではと、気づかせる句作りだ。

  

護国寺にあそぶ時、馬にてむかへられて
白雲や花に成行顔は嵯峨

『五元集』より

*「花に成りゆく顔は嵯峨」と読むが、前書によれば、馬を回してもらって其角が護国寺へ行く途中の吟という事になる。遠くから白雲のように見えていたものが、次第に花の山になり、自分の顔も嵯峨の景の前にいるような「嵯峨顔」になって来たの意であろう。ここで嵯峨と言ったのは、護国寺の景を京の嵯峨に見立てて言っているのだが、元禄13年の夏、京都嵯峨清涼寺の釈迦如来像の出開帳が江戸の護国寺で行われて大変評判になったので、江戸市中の人は嵯峨で分かるわけだ。
 『そこの花』(元禄十四年刊)には「嵯峨の釈迦武江に下り給ひける時」と前書し掲句が載っている。この前書だと、馬上の主体は釈迦如来像という事になる。即ち、はじめ白雲のように見えていたのが、花の山のさまになり、さらに近づくにつれて京の嵯峨と見まごう面影の護国寺の森が見えて来たとの、釈迦如来像からの眼になる仕掛けの句である。
 この「白雲や」のような句をつくる(作れる)俳人は、少ないだろう。明治以降主流になった写生句を超えているし、何よりも前書によって句の意味が変わってしまう等という「連句的手法」は、俳諧を自在にしたプロの俳諧師の仕事という事になろうか。



傾廓
時鳥暁傘を買わせけり

『五元集』より

*其角39歳の時の句。「ほととぎす あかつきかさを かわせけり」と読みます。『五元集』では「傾廓」と前書を付けています。「傾城」「傾国」なら城を傾けるほどの絶世の美女とか上級の遊女の意味になりますが「廓を傾けるほどの遊女」とは言いません。で、この前書よく分かりませんが「傾城のいる廓」と言う意味で「傾廓」と造語したのかも知れません。こう書いておけば、廓の朝帰りという場面だと分かるわけです。
 吉原の暁どき、折からの雨に物売りに交じって、傘売りも来ているのです。気前よく傘を一本買ったら、ホトトギスが啼いたというのです。偶然にせよ、それを「買わせけり」と言ったところ洒落ですが、暁どきの気分に、イマという瞬間がよく切り取られています。「時鳥」「暁」「傘」と名詞を並べて「買わせけり」とまとめた句作りは、まさに偶吟であったのでしょう。


2005.07.25〜2011.10.22 二上貴夫(ふたかみきふう)

 

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